グローバルヘルス政策ウォッチ

ワンヘルス・アプローチの国際政治的課題:越境感染症、気候変動、生態系変化への統合的対応

Tags: ワンヘルス, 国際保健, 国際政治, パンデミック対策, ガバナンス, 環境変動, 国際協力

はじめに:グローバルヘルスにおけるワンヘルス・アプローチの重要性

近年の世界的な公衆衛生危機、特にCOVID-19パンデミックは、人間、動物、そして環境の健康が相互に深く関連していることを改めて浮き彫りにしました。人獣共通感染症の発生、薬剤耐性(AMR)の拡大、食料安全保障、気候変動による生態系変化とそれに伴う感染症リスクの増大といった複雑な課題に対処するためには、従来の分野別アプローチでは限界があり、これらの要素を統合的に捉える「ワンヘルス・アプローチ」が不可欠であるとの認識が国際社会で高まっています。

ワンヘルスとは、人間、動物、環境の健康が相互に依存していることを認識し、ローカル、ナショナル、グローバルなレベルで様々な分野が連携して課題に対処するための協調的、横断的、そして学際的なアプローチを指します。このアプローチは、公衆衛生だけでなく、農業、獣医学、環境科学、野生生物学、そして社会科学を含む広範な分野の専門家や政策決定者が協力することを求めています。

しかし、ワンヘルス・アプローチの国際的な政策実装は、単なる科学的・技術的な問題に留まらず、複雑な国際政治的課題を伴います。異なる国家間の優先順位、資金配分、主権の問題、多様なアクター間の利害調整、そして既存の国際ガバナンス構造の課題など、多岐にわたる論点が絡み合っています。本稿では、ワンヘルス・アプローチの国際政治における主要な課題を分析し、その政策的含意について考察します。

ワンヘルス関連の国際的枠組みと現状

ワンヘルス・アプローチの推進において中心的な役割を果たしている国際機関は、世界保健機関(WHO)、国連食糧農業機関(FAO)、国際獣疫事務局(WOAH, 旧OIE)です。これらの機関は2010年代から「三者同盟(Tripartite)」として協力し、ワンヘルスの概念普及やガイドライン策定を進めてきました。近年、国連環境計画(UNEP)が加わり、「四者同盟(Quadripartite)」として連携を強化しています。

四者同盟は、「ワンヘルス統合行動計画(One Health Joint Plan of Action: 2022-2026)」を策定し、能力開発、科学的知見の共有、政策支援などを通じて、各国におけるワンヘルス戦略の策定・実施を支援しています。また、グローバルな健康危機への備えと対応に関する議論、例えば国際保健規則(IHR)の改正交渉や新たなパンデミック条約の検討においても、ワンヘルスの重要性が繰り返し強調されています。

G7やG20といった枠組みでも、パンデミック対策の一部としてワンヘルスへの言及が見られるようになりました。例えば、G7広島サミットの成果文書では、越境的健康脅威への対応においてワンヘルス・アプローチの重要性が再確認されています。しかし、これらの国際的な動きは、概念的な支持や協力の枠組み構築に留まる傾向があり、具体的な政策統合、資金調達、アカウンタビリティのメカニズムについては、いまだ多くの課題が残されています。

国際政治におけるワンヘルス実装の主要課題

ワンヘルス・アプローチの国際的な政策実装は、以下のような多層的な国際政治的課題に直面しています。

国際協力と地政学の視点

ワンヘルス・アプローチの推進は、国際協力の新たなフロンティアであると同時に、既存の地政学的競争や国際関係の力学に影響を受けます。

パンデミックの発生源調査や、越境的な動物疾病の追跡は、国家主権や国家安全保障に関する懸念と衝突する可能性があります。データの透明性や情報共有の遅れは、信頼関係を損ない、国際協力を妨げる要因となり得ます。また、ワンヘルス関連の研究開発(例: 新規ワクチンの開発、生態系モニタリング技術)や、それに基づく製品・サービスのサプライチェーンは、国際的な技術競争や経済安全保障の文脈で捉えられることもあります。

開発協力の観点からは、先進国が低・中所得国におけるワンヘルス能力開発を支援することは、グローバルな公衆衛生安全保障の強化に貢献しますが、これは同時に支援国のソフトパワー拡大や影響力行使の手段ともなり得ます。支援の条件設定、技術移転のあり方、知的財産権の扱いなどは、開発援助の政治経済学における従来の課題がワンヘルス分野にも持ち込まれることを示唆しています。

地域レベルでの協力枠組み(例: ASEANのワンヘルスに関するイニシアティブ、アフリカ連合の獣医サービス強化プログラム)は、特定の生態系や感染症リスクを共有する国々にとって特に重要です。これらの地域イニシアティブは、グローバルな枠組みの補完として機能する可能性がありますが、地域内の政治的緊張や経済格差が協力の障壁となることもあります。

今後の展望と政策的示唆

ワンヘルス・アプローチを国際政治の中で効果的に推進していくためには、以下の点が鍵となります。

  1. 統合的なガバナンスメカニズムの強化: 既存の国際機関間の連携をさらに深めるとともに、国家レベルでの政策統合を促すための国際的な規範やインセンティブを強化する必要があります。例えば、パンデミック条約や改正IHRの中で、ワンヘルスを法的拘束力のある形で位置づけることや、国家的なワンヘルス戦略策定・実施の報告義務を設けることなどが考えられます。
  2. 革新的な資金調達モデル: 既存の分野別資金を統合・協調させるためのメカニズムや、環境保護や気候変動対策資金との連携を強化するなどの新たな資金調達モデルを検討すべきです。国際金融機関やグローバルファンドの役割を拡大し、ワンヘルスへの投資を優先事項として位置づけることが重要です。
  3. データ共有と能力開発への投資: 国際的なデータ共有プラットフォームの構築を支援し、データ共有に関する国際的なガイドラインや標準を策定する必要があります。特に、低・中所得国におけるサーベイランス、診断、研究能力を強化するための長期的な投資と技術移転が不可欠です。これは単なる援助ではなく、グローバルな公衆衛生安全保障への投資として位置づけるべきです。
  4. 包括的なアクターエンゲージメント: 政府、国際機関に加え、研究機関、市民社会組織、地域社会、そして民間企業を、ワンヘルスの政策決定、計画、実施のあらゆる段階に効果的に関与させるためのフレームワークを構築することが求められます。透明性とアカウンタビリティを確保しながら、多様な知見やリソースを活用することが重要です。
  5. 科学的根拠と政策決定のリンケージ強化: 複雑なワンヘルス課題への対応には、科学的知見に基づく政策決定が不可欠です。政策決定者と科学者の間の継続的な対話と、科学的助言メカニズムの強化が必要です。四者同盟などのプラットフォームが、これを促進する役割を果たすことが期待されます。

まとめ

ワンヘルス・アプローチは、将来のグローバルヘルス危機を防ぎ、持続可能な開発目標(SDGs)の達成に貢献するための強力なフレームワークです。しかし、その効果的な国際的な政策実装は、各国の主権、異なる国家の利害、既存の制度的サイロ、資金調達の課題、そして地政学的な力学といった複雑な国際政治的課題と切り離せません。

これらの課題を克服し、ワンヘルスを単なる概念から実践的な行動へと転換させるためには、国際社会は政治的な意志を結集し、分野横断的な協力と統合的なアプローチを推進する必要があります。これは、既存の国際ガバナンス構造に対する挑戦であり、多角的な視点と粘り強い外交努力が求められるプロセスです。ワンヘルスは、グローバルヘルス安全保障と環境持続可能性を同時に追求するための不可欠な戦略であり、その国際政治における課題への取り組みは、ポストパンデミック期における国際協力のあり方を左右する重要な論点となるでしょう。