パンデミック後のグローバルヘルス研究開発(R&D)ガバナンス:公衆財としてのイノベーションと国際協力の論点
導入
COVID-19パンデミックは、感染症への迅速な研究開発(R&D)能力の重要性を改めて浮き彫りにしました。史上稀に見るスピードでワクチンや治療薬が開発された一方で、その成果へのアクセスは国・地域間で著しく不平等であり、グローバルヘルス研究開発のエコシステムとガバナンスにおける構造的な課題が露呈しました。パンデミック後の世界において、将来の健康危機に備えるためには、このグローバルヘルスR&Dのあり方、特にそのガバナンスメカニズムを、公衆財としてのイノベーションをいかに実現し、国際協力によって課題を克服していくかという視点から、多角的に分析することが不可欠です。
本稿では、グローバルヘルスR&Dを取り巻く現状と、パンデミックが加速あるいは顕在化させた主要な政治経済的課題に焦点を当てます。特に、R&Dの優先順位付け、資金調達、イノベーション成果へのアクセスと公平性、知的財産権と技術移転、そして国際協力を巡るガバナンスの論点を、国際機関、国家、民間セクター、研究機関といった多様なアクターの役割と相互作用を分析することで深掘りしていきます。
グローバルヘルスR&Dの現状と特性
グローバルヘルスR&Dは、市場原理だけでは十分な投資が行われにくい特性を持っています。特に低・中所得国に影響が大きい顧みられない病気(Neglected Tropical Diseases: NTDs)や、発生頻度は低いものの甚大な被害をもたらす可能性のある「疾病X」のような新興感染症に対するR&Dは、高い投資リスクや不確実性から、民間セクターのみに依存することは困難です。
このため、グローバルヘルスR&Dのエコシステムには、政府、国際機関(WHO、世界銀行など)、フィランソロピー(ビル&メリンダ・ゲイツ財団など)、官民パートナーシップ(Gavi, CEPIなど)、そして製薬企業やバイオテクノロジー企業、学術研究機関など、多様なアクターが関与しています。資金調達も、公的資金、民間投資、慈善寄付と多岐にわたりますが、依然として特定の疾患や市場性の高い製品に投資が集中する傾向が見られます。例えば、COVID-19パンデミック前は、年間約300億ドルのグローバルヘルスR&D投資の大半がHIV/AIDS、マラリア、結核、そして一部の非感染性疾患に充てられており、新興感染症への備えは十分ではありませんでした。
パンデミックが突き付けたR&Dガバナンスの課題
COVID-19パンデミックは、グローバルヘルスR&Dガバナンスにおける既存の課題を先鋭化させました。
第一に、迅速なR&Dと公衆財としての成果のバランスです。前例のないスピードでワクチンや治療薬の開発が進みましたが、これは巨額の公的資金が投入され、規制プロセスが加速され、官民連携が強化された結果です。これらの成果は実質的に公衆財としての性格を持つべきですが、その後の製造、分配、価格設定においては、開発企業の知的財産権や商業的利益が優先され、世界的なアクセス不平等を引き起こしました。
第二に、R&D資金の持続可能性と公平性です。パンデミック対応のために巨額の資金が緊急的に動員されましたが、平時における新興感染症やNTDsなどに対するR&D投資の不足は解消されていません。また、R&D投資の負担が一部の先進国に偏っている現状は、資金提供国以外のニーズを十分に反映しきれない可能性を孕んでいます。WHOのR&Dブルーポイントなどの優先順位設定メカニズムは存在しますが、実際の投資決定は個別の資金提供者や企業の戦略に強く影響されます。
第三に、知的財産権と技術移転の課題です。COVID-19パンデミックにおいては、特にワクチン製造能力の分散化が求められましたが、知的財産権の障壁や技術移転の難しさから、迅速な対応が阻害されました。TRIPS協定の適用除外(Waiver)に関する議論は、この課題の国際政治的な側面を強く示しています。イノベーションへのインセンティブと、公衆衛生上のニーズに基づく迅速かつ公平なアクセスをいかに両立させるかは、依然として根本的な課題です。
国際政治・外交的側面からの分析
グローバルヘルスR&Dガバナンスの課題は、単なる技術的・経済的な問題ではなく、強い国際政治・外交的な側面を持っています。
国家の利害とパワーバランス: 主要な資金提供国やR&D能力を持つ国は、自国の安全保障や経済的利益を優先する傾向があります。パンデミック初期の「ワクチンナショナリズム」は、この側面を如実に示しました。R&D投資や成果の共有に関する国際的なルールメイキングは、これらの国家の利害対立の中で進行します。
南北間の不平等: R&Dの優先順位、資金調達への貢献、技術移転、そして最終的な成果へのアクセスにおいて、先進国と開発途上国間の不平等は根深い問題です。開発途上国は、自国の健康ニーズに見合ったR&Dが行われにくい現状や、高価な新製品へのアクセスが困難であるという課題に直面しています。これは、グローバルヘルスを巡る「南北問題」の一環として理解されるべきです。
国際機関の役割と限界: WHOはR&Dの優先順位設定や標準化において重要な役割を担い、CEPI(感染症流行対策イノベーション連合)のような官民パートナーシップは特定の疾患領域でのR&D資金調達とポートフォリオ管理を進めています。しかし、これらの機関がR&Dエコシステム全体を包括的にガバナンスし、国家や企業の行動を強制するには限界があります。資金の Voluntary Contributions への依存は、WHOなどの独立性を弱める可能性も指摘されています。
新しい国際枠組みの模索: パンデミック条約交渉や国際保健規則(IHR)改正交渉においては、病原体へのアクセスと利益共有(Access and Benefit Sharing: ABS)、技術移転、R&Dの協力に関する条項が議論されています。これらの交渉は、グローバルヘルスR&Dをより公平で効果的なものとするための国際的なルールと責任を明確化しようとする試みですが、知財、資金負担、主権といったセンシティブな問題が絡み合い、多くの政治的困難を伴っています。
今後の展望と政策的示唆
グローバルヘルスR&Dガバナンスの課題を克服し、将来の健康危機に備えるためには、以下のような政策的な視点が重要となります。
- 持続可能で公平な資金メカニズムの構築: 緊急時だけでなく、平時におけるR&Dへの継続的な投資を保証するメカニズムが必要です。革新的な資金調達方法(例: 航空券税、金融取引税の一部活用)や、より多くの国が貢献する公平な負担分担モデルの検討が求められます。
- R&D優先順位付けプロセスの強化: WHOのような国際機関が主導し、低・中所得国のニーズをより強力に反映できる、透明で包摂的な優先順位決定プロセスを確立する必要があります。
- アクセスと技術移転を組み込んだR&D契約: 公的資金を投入したR&Dに対しては、研究開発初期段階からアクセス条項や技術移転義務を契約に組み込む「プッシュ型インセンティブ」を強化することが有効です。CEPIが進めるアクセス方針などが参考になります。
- グローバルな製造能力の分散化支援: 特定の国や地域に集中する製造能力を分散させ、ボトルネックを防ぐために、低・中所得国における技術移転や現地生産能力構築への投資と支援を強化する必要があります。
- 国際的な情報・技術共有プラットフォームの整備: Pathogen Access and Benefit Sharing System (PABS) のような、病原体情報や研究成果、技術を共有するための国際的な枠組み構築が急務です。
- パンデミック条約とIHR改正交渉の推進: 現在進行中の国際交渉において、R&D、アクセス、技術移転、ABSに関する実効性のある条項が合意されるよう、粘り強い外交努力が求められます。
まとめ
COVID-19パンデミックは、グローバルヘルスR&Dのエコシステムが抱える構造的な脆弱性と、それを巡る国際政治経済的な課題を露呈させました。迅速なイノベーションの創出は可能であることを示した一方で、その成果を公衆財として公平に世界に分配するためのガバナンスメカニズムは、依然として不十分です。
パンデミック後の世界において、来るべき健康危機への備えを確固たるものとするためには、グローバルヘルスR&Dを巡る資金調達、優先順位、アクセス、知財、技術移転といった論点を、国際政治、経済、そして倫理の交錯する複雑な課題として捉え直し、実効性のある国際協力の枠組みを構築していく必要があります。これは、単に技術や資金の問題ではなく、グローバルヘルスにおける公平性と連帯という原則をいかに国際的な制度設計に落とし込んでいくかという、ガバナンスの核心に関わる挑戦と言えます。関係する多様なアクターがそれぞれの立場を超えて協力し、より強靭で公正なグローバルヘルスR&Dエコシステムを構築するための継続的な対話と行動が、今まさに求められています。